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質的研究におけるN=1について

 

心理学の研究法の分類に、量的研究と質的研究というものがあります。

 

量的研究とは、多くのデータ(多い場合にはN=1000とか)を主に統計的に処理して、傾向や法則を見つけたり、因果を推察したりするものです。

一方質的研究とは、個別の、一つ一つのデータを質的に丁寧に扱い、数値化できない現象や事象を深く理解するのに役立つとされています。

 

質的研究の特徴の一つとして、院生の時に、たとえN=1(その現象が起きたのが、一回であっても)であっても、それが有意義なインパクトを持つものなら、そのデータは意義があるものとみなして、扱うことがあるということを習いました。

 

その時に例としてあげられていたものの一つが、ヘレン・ケラーです。

目が見えない、耳が聞こえない、話せない、という中で、特に当時、教育を受けたり社会的にも意義のある人生を積極的に送っていくことは、かなり難しかったことでしょう。

でも、ヘレン・ケラーはそれをした。

(そこには、家庭教師のアンサリバン先生との出会いがあったり、色々な後押しする要因があったことでしょう)。

 

そういう時に、目が見えない、耳が聞こえない、話せない、というのであれば、

もしかすると多くの例では、教育を十分に受けにくい、社会的にも意義のある人生を送りにくい、といった傾向性が見出されるのかもしれない。

けれども、ヘレン・ケラーという人がいたことによって、そうじゃなくいられるという可能性が生まれた。またヘレン・ケラーの生活や置かれていた環境などを分析することによって、より効果的なサポートや生活環境のヒントが得られるかもしれない。

 

少し大まかに書きましたが、質的研究にはそのような強みがあり、

N=1であっても、というのか、N=1が持ちうる力、そこから広がる可能性、のようなものがある、ということを、院生の時の授業を通して感じました。

 

 

 

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話が展開して。

 

モデルケースのようなものにもっと注目していくことができてもいいのではないか、と思うことがよくあります。

 

比較して、差異の方に目が向き、自分はそうではないと落ち込んでしまう場合もあるかもしれませんが、そこから得られるヒントはたくさんあったり、似たようになれる可能性、はあるのではないかと思います。

 

 

また例えば、心理学・精神医学の分野であれば、寛解に年数がかかるとされているような疾患や、社会的な不利益が大きいと考えられる疾患であっても、なかにはうまく潜り抜けたり、時に乗りこなしているようにさえ見える人、症状を強みに変えて生かしている人、病としてではなく扱われてそのような人々も日常や非日常に溶け込んでいる文化、などもあるように感じます。

 

 

 

というようなことを頭の中で考えていました。